〈特集 師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年〉① 戸田門下生の誉れ

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運命的な出会いから広布の幕は開いた

  

95年で幕となった池田大作先生の人生。それは、妙法の師弟の道に徹するとき、人はここまで偉大になれると、証明した人生であった。その巨大な足跡を6回にわたって特集する。題して「師弟の力はかくも偉大――池田先生の95年」。その第1回は「戸田門下生の誉れ」。恩師との出会いから第3代会長就任までの、死身弘法の青春時代を描く。

  

大樹を求めて

  

それは、一人の人間革命を基軸として世界平和の建設に貢献する、未曽有の民衆運動が胎動を告げた瞬間だった。
 
1947年(昭和22年)8月14日、池田先生は戸田先生と運命的な邂逅を果たした。
 
この日、池田先生は小学校時代の同級生に誘われて、東京・大田区での座談会に参加。会場に到着すると、戸田先生が「立正安国論」の講義をしていた。
 
戦後の荒廃した社会の中で、「正しい人生」を求めていた19歳の池田先生は、恩師の人格に触れて、「我、この師に続かむ。我、この道を進まむ」と、人生を賭して師事することを決めた。特に池田先生が深く感動したのは、恩師が日本の軍国主義と戦い、獄中闘争を貫いたことだった。
 
座談会の場で、池田先生は感謝の即興詩を詠じた。
 
「旅びとよ いずこより来り いずこへ往かんとするか」「嵐に動かぬ大樹求めて われ 地より湧き出でんとするか」
 
法華経に説かれる「地涌の菩薩」を連想させる詩を聞いた恩師は、にっこりほほ笑んだ。10日後の8月24日、池田先生は入信。「人間革命」即「世界平和」のドラマが幕を開けた。

  

窮地の中での構想

  

画像・少年雑誌編集長時代の池田大作先生
戸田城聖先生の元で、「冒険少年」「少年日本」の編集長を務め、奮闘していた若き日の池田先生

  

1949年(昭和24年)1月3日、池田先生は戸田先生が経営する出版社・日本正学館に初出社。少年雑誌「冒険少年」(後に「少年日本」と改題)の編集に携わり、5月、編集長となる。
 
だが、戦後の経済不況の影響で、同年10月に、「少年日本」の休刊が発表された。
 
恩師は再起を図って、信用組合を設立する。だが50年(同25年)8月、業務停止が決定。池田先生は日記に記した。「私は再び、次の建設に、(戸田)先生と共に進む。唯これだけだ。前へ、前へ、永遠に前へ」
 
池田先生の入信3周年の同年8月24日、戸田先生は学会の理事長辞任の意向を発表した。
 
手のひらを返したように、恩師を罵倒し、去っていく人間もいる中で、池田先生はただ一人、恩師を支え抜いた。
 
絶体絶命の窮地の中で、戸田先生は池田先生に、聖教新聞の創刊や大学の設立の構想を語っている。
 
この50年の秋から、戸田先生は、池田先生を中心に、何人かの代表に御書講義を開始した。翌年2月からは、古今東西の名著などを題材とした講義も行う。日曜日の講義は、池田先生への学問百般にわたっての個人教授となった。
 
この「戸田大学」の講義は、57年(同32年)まで続いた。先生は後に、数多くの大学・学術機関から名誉学術称号を受章する。「すべては戸田大学の薫陶の賜物」と、恩師への深き感謝を述べている。

  

苦楽を分けあう縁

  

信用組合の整理は、至難を極めた。戸田先生は一部の債権者から告訴され、逮捕されかねない状況だった。
 
だが、1951年(昭和26年)2月、事態が好転する。組合員の総意がまとまるなら、信用組合を解散してもよいという通達が、大蔵省(当時)から届いたのである。
 
同年3月11日、信用組合は解散。この日の創価学会の臨時総会で、恩師は宣言した。
 
「一国広宣流布の秋は今であります。既に、東洋広宣流布の兆しも現れた。仏勅を被った創価学会の闘士こそ、先陣を切って進むべき時が、遂に来たのであります」
 
恩師の師子吼に、池田先生は歓喜し、同志と共に対話に駆けた。そして、自らの先駆の弘教で、5月3日、戸田先生の第2代会長就任を荘厳したのである。
 
戸田先生は記念写真の裏に和歌をしたためて、池田先生に贈った。
 
「現在も 未来も共に 苦楽をば 分けあう縁 不思議なるかな」

  

画像・会長就任日の戸田城聖先生
1951年5月3日、会長就任日の戸田先生

  

画像・写真の裏にしたためられた池田先生へ贈られた和歌
その写真の裏に戸田先生がしたため、池田先生に贈った和歌

  

弟子の証し

  

第2代会長就任式の席上、戸田先生は「75万世帯の弘教」を宣言した。
 
当時の会員数は約3000人。“戸田先生は長生きされるのだろう”と考える幹部もいたほど、誰もが“夢物語”と捉えた。
 
広布は遅々として進まなかった。1951年(昭和26年)12月の弘教は、全国で466世帯。75万世帯は、はるか遠い未来だった。
 
その「壁」を破ったのが、池田先生である。翌52年(同27年)1月、蒲田支部の支部幹事の任命を受けると、2月には1カ月で支部201世帯の弘教を達成。ここから、学会は勢いを増して前進する。
 
53年(同28年)は学会の歴史の中にあって、一段と弘教が加速した年。5万世帯の弘教を年間目標として掲げ、それを達成したのである。
 
この拡大の原動力となったのも、池田先生の戦いだった。同年1月、先生は男子部の第1部隊の部隊長に就任。1年間で3倍の人材拡大を成し遂げた。4月には文京支部の支部長代理に。低迷する同支部を第一級の支部へと躍進させた。
 
その後も、先生は各地で「弟子としての勝利の証し」を打ち立てていく。55年(同30年)8月、札幌を舞台に10日間で388世帯という全国一の拡大を達成。翌56年(同31年)5月、大阪で支部1万1111世帯の弘教という不滅の金字塔を打ち立てる。7月には、“まさかが実現”と世間を驚嘆させる大逆転劇を飾った。
 
同年10月からは山口で指揮を執り、延べ22日間で当時の世帯数を約10倍に拡大した。

  

人権闘争の誓い

  

民衆の幸福と世界の平和を建設する、SGIの新しきヒューマニズム運動は今、地球を包む。
 
その大潮流をもたらす源泉は、牧口先生、戸田先生の獄中闘争とともに、1957年(昭和32年)に起こった「大阪事件」での、池田先生の人権闘争の誓いにある。
 
同年7月3日、先生は公職選挙法違反という事実無根の容疑で不当に逮捕・勾留される。4年半に及ぶ法廷闘争の末、62年(同37年)1月25日、正義は証明された。
 
先生は「大阪事件」の構図や背景、その事件が学会の歴史において、どのような意味を持っているか、ということについて、小説『人間革命』第11巻に詳細に書き残した。

  

画像・大阪大会が開催された大阪の中之島公会堂
歴史的建築物として名高い中之島の大阪市中央公会堂(2007年11月、池田先生撮影)。1957年7月17日、この場所で「大阪大会」が行われ、釈放された池田先生が出席。“最後は信心しきったものが必ず勝つ!”と師子吼した

  

第11巻が聖教新聞で連載終了を迎えたのは、91年(平成3年)10月。翌月、学会は日顕宗から「魂の独立」を果たす。そして、92年(同4年)を「創価ルネサンスの年」と定め、世界宗教としての飛翔を開始した。
 
先生は「第十一巻に記した広布の軌跡は、やがて、この『創価ルネサンス』の大河の流れを形成する、渓谷を走る奔流の時代であったとの感を深くしている」と。57年の「大阪事件」の軌跡は、35年後の「創価ルネサンスの年」、さらには現在までの世界広布の流れを決定づけたのである。

  

魔性を破る闘争

  

画像・横浜三ツ沢競技場、若人の祭典での池田先生と戸田先生
横浜・三ツ沢の競技場で行われた「若人の祭典」に出席する戸田先生と池田先生(1957年9月8日)

  

「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私は、その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う」
 
1957年(昭和32年)9月8日、横浜・三ツ沢の競技場で行われた青年部の「若人の祭典」の席上、第2代会長・戸田先生の烈々たる師子吼が轟いた。
 
「もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります」
 
当時、世界は東西冷戦下にあり、「核抑止論」のもと軍拡競争がエスカレート。核実験が繰り返されていた。
 
人類を一瞬で滅ぼす核兵器を廃絶するため、戸田先生は青年への“遺訓の第一”として、「原水爆禁止宣言」を発表したのである。
 
生命尊厳を第一義とする仏法者として、恩師は死刑制度には反対だった。それでも、あえて「死刑に」と強調したのは、原水爆を保有し、使用したいという人間の“己心の魔性”を絶対悪と断じるためである。
 
宣言の発表から2カ月後の同年11月、戸田先生は広島訪問を予定していた。だが、すでに体の衰弱は激しく、出発の日の朝、自宅で倒れてしまう。池田先生は、当時のことをこう振り返っている。
 
「(戸田)先生の被爆地・広島への思いは、いかばかりであったろうか。核兵器という『サタン(悪魔)の爪』に破壊された広島へ、命と引きかえで出発する覚悟だった」
 
「生命を賭して、広島行きを望まれた、あの師の気迫は、生涯、わが胸から消えることはない。いな、それが、私の行動の原点になった」
 
戸田先生は、原水爆禁止宣言をテーマにした女子部総会に出席する予定だった。総会には、恩師の名代として、池田先生が出席し、宣言の精神の継承を呼びかけた。
 
池田先生は生涯にわたって宣言の精神を、世界の識者との語らいや平和提言などで訴え、核兵器廃絶の実現に全精魂を注いだ。
 
宣言の発表から60周年の2017年(平成29年)、国連で122カ国の賛同を得て「核兵器禁止条約」が採択。21年(令和3年)、50カ国の批准を得て発効した。

  

宗教界の王者

  

1958年(昭和33年)3月、戸田先生は池田先生に、「将来のために、広宣流布の模擬試験、予行演習となる式典をしようじゃないか!」と語った。
 
式典は3月16日、全国から男女青年部6000人が集って開かれた。
 
当時の首相が来訪する予定だったが、周囲からの横やりで実現しなかった。戸田先生は“青年たちとの約束を破るのか”と憤るも、「青年と大儀式をやろう」と決断した。
 
前年12月、生涯の願業である75万世帯の弘教を達成した恩師は、すでに革靴が履けないほどの状態だった。それでも、“創価学会は宗教界の王者である”と宣言し、後事の一切を青年に託した。

  

画像・学会歌の指揮をとる池田先生と戸田先生
池田先生と戸田先生が力強く学会歌の指揮を執る(1958年3月、静岡で)

  

「3・16」の後、戸田先生は池田先生に「追撃の手をゆるめるな」と強調した。学会の前進を攪乱し、阻もうとする勢力には一歩も退くことなく、徹底して戦い抜くことを厳命したのである。池田先生は、この遺言を青年部、さらには学会の厳訓として、繰り返し語った。
 
58年4月2日、戸田先生は58歳で死身弘法の崇高な生涯の幕を閉じた。同年4月29日、先生はペンを走らせた。
 
「戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。一直線に進むぞ。断じて戦うぞ。障魔の怒濤を乗り越えて。本門の青春に入る」 

  

不二の心で

  

戸田先生の逝去後、世間は「学会は空中分解する」などと中傷した。批判の嵐が激しくなるほど、先生は戦う魂を燃え上がらせた。
 
「私の一生は、戸田先生の遺言ともいうべき構想を、叫び、戦い、達成することだ。これだけが、私のこの世の使命だ」(1958年7月6日の日記)
 
恩師亡き後、恩師と不二の心で、池田先生は広布の一切の責任を担い、友に励ましを送り続けた。
 
1960年(昭和35年)5月3日、創価学会第3代会長に就任。恩師の広布の構想実現のために、世界を駆け巡っていく。
 
池田先生は述べている。
 
「皆様が『師弟』の精神を護っていけば、必ず素晴らしい指導者が湧き出てくる」
 
「その未来を、私は確信している」

  

画像・会長就任式後、青年に胴上げさる池田先生
歓喜に満ちあふれた第3代会長就任式の終了後、青年たちが池田先生を胴上げで祝福(1960年5月3日、東京・日大講堂で)